コロナ禍を経験し、10周年を迎える今、届けたい。人肌を感じる全11曲!

 2021年12月22日に“石埼ひゅーい”がニューアルバム『ダイヤモンド』をリリースしました。今作には、「Namida」「アヤメ」「ブラックスター」といった配信シングルや、私立恵比寿中学への提供曲をセルフカバーした「ジャンプ」、ドキュメンタリー映画『私は白鳥』主題歌「スワンソング」など全11曲を収録。重度の寂しがりで、ひとと会えないコロナ禍はツラかったという彼。そんな自分だからこそ、音楽で大切にしようと思ったこととは…? 歌詞に大きな影響を与えたお母さんのお話や作詞の軌跡についても、じっくりとお伺いしました。是非、歌詞と併せてお楽しみください。
(取材・文 / 井出美緒)
スワンソング作詞・作曲:石崎ひゅーいつぎはぎだらけの日々を巡り 小さな喜び見つけて
僕にしか聞こえない声で言う 嬉しい 嬉しいって
いつかこの欠片を磨いたら ダイヤモンドみたいに輝いて
はしゃぐ君に会いたい そんなことを今、想像してたんだよ
こんな僕のそばに寄り添って、どうして笑ってくれるの?
いつもと同じ空の隅っこから 大丈夫 大丈夫って
ほら、その優しさが痛いんだ それなのになぜかあたたかいんだ
愛しているよと言えたらまた今日という日を迎えにいけるかな
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菅田くんの曲を書くとき、自分の曲の100倍ぐらい自信ありました(笑)。

―― ひゅーいさんには今年、歌詞エッセイを執筆いただきましたね。そこにまず「僕は中3から音楽を始めた」とあるのですが、始めるに至った最初の音楽に対する感動というといかがですか?

音楽の原体験みたいなものは親ですね。音楽が好きなひとだったので、よく家でデヴィッド・ボウイとかトム・ウェイツのレコードが流れていて。自然と聴いていたんですけど、それが音楽を意識するきっかけだったと思います。何が良いとかではなく心が持っていかれる感覚がありました。そして中学生になり、最初に篠原涼子「恋しさと せつなさと 心強さと」を買うんですね。映画『ストリートファイターII MOVIE』の主題歌になっていて、カッコいいなって。音楽を自分から聴くようになったのはそこからですかね。

―― 学生時代って、大人に言いたいことやモヤモヤなどが心の内に湧いてくることも多いかと思うのですが、何故ひゅーいさんが最初に書いた歌詞は「ヒストリーオブガンジー」だったのでしょうか。

多分、言いたいことがなかったんですよね(笑)。何かを訴えたいみたいなタイプではないというか。

―― 何かを言いたいからというより、自分が歌いたいことを探したいという気持ちで歌詞を書いていた感覚ですか?

photo_01です。

そうですね。エッセイにも書かせていただいたんですけど、歌うということ自体は好きみたいで、中3のときからずっとバンド活動をしてきたんです。でも、自分が書いてない歌詞を歌っていることに違和感を覚え始めて。それと同時に、表現してみたいっていう欲求が生まれたんですよね。だから歌詞を書きたいっていう気持ちよりも、どちらかというと、書かないと自分の心が荒んでいきそうだったのかな。

―― 石崎ひゅーいとして「こういう音楽を作りたい」というモットーのようなものはありましたか?

最初の頃はありませんでした。感覚的には、とにかく放出するというか。自分のなかにある説明できない感情みたいなものを、どういった出方でも良いから、放出する。それが僕のスタイルでしたね。でも、バンドが終わる直前ぐらいに僕の母親が亡くなったんですよ。やっぱり母親のことを書かざるを得なくて。そこから、死んだ母親に向けてとか、空に向けて歌詞を書くようになっていって。どんどんパーソナルなことを歌詞にするように変わっていきました。それは自分の意志というよりは、母親が亡くなったというきっかけがあったからですね。

―― お母さんに向けてという想いがあるからこそ、ひゅーいさんの過去の楽曲には<星>や<空>といったワードがよく登場するのでしょうか。

まさにそうです。母親という存在が僕のなかでめちゃくちゃ大きくて。たとえば小さい頃から、下北沢の劇場とかに連れて行ってくれて、芝居を見せてくれたり。音楽的な教養も芸術的な教養も全部、母親からの影響なんです。あと、すごく天体が好きなひとだったんですよ。家に天体望遠鏡が置いてあったりもして。それを持って「今日は〇〇流星群だから、公園に行くわよ」と言って、ミニクーパーに乗って公園に行って、夜中まで星を観たり。そういう家庭だったんですね。デヴィッド・ボウイも好きでした。とくに『ジギー・スターダスト』が。だからもう星にまつわるワードは、出てきちゃうって感覚ですね。

―― お母さんが好きだったものたちが、今のひゅーいさんの音楽を作り上げているんですね。

そうだなぁ。僕は母親のアイデンティティーにすごく憧れがあって。だからとくに最初のうちは、自分がというよりも、母親の思想とか人となりをいろんなひとに伝えたかったんですよね。それをこの世界に残さないのはもったいないって気持ちが、かなり歌詞を書く原動力になっていると思います。それが石崎ひゅーいのソロの始まりだった気がしますね。

―― 最初に自分の歌詞が、誰かにちゃんと「届いた」と実感があった楽曲というと、どの曲が浮かびますか?

花瓶の花」ですかね。あれを最初に歌ったとき、ものすごくひとを引き込む歌なんだって感じました。友だちの結婚式のために作った歌だったんですけど。反応がとても大きかったですね。地元に帰って結婚式で歌ったりしたときも、今まで俺が作った曲とかをずーっと聴いている幼馴染だったり、一緒にやっていたバンドメンバーだったりが、褒めてくれました。

―― そういう大きな広がりを見せる曲は、0から1になる瞬間に自分でも感覚が少し違うものですか?

いや、それが僕はわからないんですよね。基本的に100に対して書くんじゃなくて、1に対して書こうっていうのはどの曲も変わらなくて。その曲が生まれて、誰かに判断してもらうまでわからないんですよね。手ごたえっていうのは、人の心に届いてからじゃないと、感じたことがないかもしれないです。

―― ひゅーいさんは楽曲提供も数多くなされていますが、そのひとに似合う言葉みたいなものは、どのように探していくのでしょうか。

とにかくそのひとを好きになる。というよりも、もう好きになっていますね。あと、ありがたいことに、僕が楽曲提供させていただいている方たちって、すごくストーリーを背負っているというか。そのひとが何もしていなくとも、後ろに歴史が垣間見える。そういうひとたちの歌を作らせていただいているので、あまり苦労することがないですね。むしろ、そのフィルターお借りしますという感覚なんです。それを自分に装着して書くというイメージで。そうすると普段、自分の曲として書くときの表現とは違ったものが生まれたりして。逆にそれを後々、自分の制作に応用したり。そうやって幅を広げている感じですね。

―― とくに菅田将暉さんには、もう何曲も作られていますが、彼もまさにストーリーを背負っている気がします。

本当に菅田くんなんかもうね…。最初に菅田くんの曲をやらせてもらえるってなったときに、自信ありました。自分の曲の100倍ぐらい(笑)。こんな曲を歌ったら絶対に良いという明確な何かがあった。それほど菅田くんが強いものを持っているからだと思うんですけど。あと、自分って自分のことがわかっちゃっている部分があるから、自分の曲は嘘がつけないというか。でも、誰かに書くときって、自分じゃないから、想像をどこまで膨らましても嘘にはならない。僕の歌詞を書くという行為が嘘にならないから、実は自由度が高いのかもしれません。

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